メッセージ募集中!
オハイオ大学に留学経験がある中部大学卒業生、中部大生の皆さん、中部大学に留学経験があるオハイオ大学卒業生、オハイオ大生の皆さん、両大学の関係者の皆さん、写真を添えてぜひメッセージをお寄せください。
CRMを重視せよ
人文学部 英語英米文化学科 2007年度卒業
小倉 新
幼少の頃、広い大空へ大地を蹴り力強く離陸する飛行機の姿に一瞬で心を奪われた40代目前のパイロットの半生である。今思えば pilot という英単語こそ、私が人生で初めて覚えた英単語であり操縦士という日本語を学ぶのはその後であった。
今でこそ人気職業トップ20にすらランクインされないパイロット。しかし私が子どもの頃は常に上位10位には入る人気職種。当然周囲に1人くらいは志す者がいるかと思いきや大学卒業まで皆無。ライセンス獲得までは孤独な道のりであった。
私が英語を真剣に学び出した理由は言うまでもない。パイロットには英語が必須だからと教えられたからだ。半ば詐欺紛いの訪問式教材販売業者の営業マンですら理解していたほどだ。初めての英語デビューは中学3年生の頃。地元、長野県南安曇郡豊科町(当時)の姉妹都市への交換留学だった。オーストリアのグラムザッハへの1週間の研修だった。チロルチョコで有名なチロル地方に位置していた。自ら学んだ英語が通じるのか。同級生6人と引率1名という布陣であったが当時の私は自分のみの成功に執着していたように思える。仲間がコミュニケーションに困っている時は間に入り解決を図るが、それは「助けてあげている」といった上からの目線だったと覚えている。「自分の努力次第で何でもできる」といったある種の自惚れを覚えた人生初の小留学となったわけだ。
中部大学では本格的な留学が経験できた。実はここで学んだことこそが、今日の私のフライトで大いに役立っている。寮生活では現地の学生と2人で一部屋。これがまた大変だったのだ。当時、1人でなんでもする、あまり人と戯れない、マイペースで行う、といった生活しか送ってこなかった自分。そして前述の様に「上から目線」な人格がまだまだ介在していた。そんな折に価値観や生活スタイルが全く違った人とルームシェアし共生することがどれだけ大変だっただろう。正直心を分かち合って帰国した記憶はない。当時はストレス以外の何ものでもなかった。しかし、オハイオでの4か月、言葉の壁だけではない異文化や思想の違う人との意思疎通に努めなくてはならないこと、その重要性に気付かされたのだ。言語習得する過程にその密度を高める妙薬があるとしたら正にこの「健全なストレス」は必須であろう。
CRM それは Crew Resource Management の略である。無論、機長はシップの最高責任者であり率先して判断決断を下してく存在であることには変わりない。だが一方で、安全運航を維持するため常に機内で起きている事象に耳を傾け、各々の役割に応じて任務を与え、それらが無事遂行されているか管理監督せねばならない。そして、CRMとはそれらが円滑に運営されるような現場の雰囲気を醸成させるべきという考え方なのだ。問題はそこには様々な人々が存在することだ。機長1人のスタンドプレーで完結するのではく、全搭乗者の希望や感情などが渦巻く現場に軟着陸点を見出していかねばならないのだ。航空機という狭い空間の中1人の勝手な行動が機の運命を左右する致命傷となる事がある。乗客の心に寄り添い思いやれる心、自分の計画を人に説得して理解を得る技術、助手のアドバイスに耳を傾ける余裕、張り詰めた時ジョークの一つも飛ばせるユーモア、どれをとっても海外で出会った考え方である。シップは常に順風満帆と航行しているとは限らない。万が一の時に最善の策を講じ乗り切るには乗客含めたクルー全員との協調一致団結こそ不可欠なのだ。
昨今、ストレスという言葉が嫌厭されている。しかし、月200時間残業などという過度のストレスは除いて、自らを正し導いてくれるストレスはあって然るものと考える。我が傲慢さに少しだけ気づかせてくれたオハイオ留学に感謝しているし、在学していた当時7期生の団結ぶりは今も心地よい思い出として記憶に鮮明に残るところである。
今回の寄稿にあたり、私はオハイオ留学体験からヒントを得たCRMの精神を生かしこれからも安全で快適な空の旅を構築できるパイロットでありたいと決意を新たにするところである。
雲海を越えて 操縦席から眺望
離陸許可を入電する筆者
OHIOの街を楽しむ筆者 2005年8月
自分の目で見て、感じ、考え、行動することの大切さ
人文学部 英語英米文化学科 2021年度入学
今泉 ひかる
「百聞は一見にしかず 」という言葉がある。中部大学を一年休学して、オハイオ大学で英語を学んでいる私はこの言葉を日々実感している。聞くだけでなく、実際に見てみないとわからない。見るだけでなく、考えないと意味がない。考えるだけでなく、行動しないと意味がない。それを考え、日々思い知らされるのが留学である。このエッセイでは、そのような三つの体験を紹介してみたい。
最初に、LGBTQについて話してみたい。私がアメリカついて持っている最も大きなイメージは、「自由」で「自己主張」の国であった。しかし、それはイメージであり、これほど浸透しているとは想像もつかなかった。その自由や個人主義は、発想だけでなく、言動も本当に日本では想像が使いほど自由で個人が中心なのだ。
あるときこのような質問を受けた。「あなたは、彼氏がいるの、それとも彼女?」「あなたの代名詞は何? 私は、They/Themだよ」 最初は彼女が何を言っているのかピンとこなかった。私は女性だから付き合うなら「彼氏」に決まっている。それに私の代名詞は3人称ならHerに決まっている。だが、このように聞かれたことが、何回もあるのだ。そう、アメリカの若者はLGBTQについての、意識が非常に高い。日本ではこんなことは考えもしない。ましてやなかなか口にできないのが現状だろう。だが、ここオハイオ大学ではLGBTQについてのイベントが頻繁に開催され、レインボーフラッグを持っていることに誇りを持ち、LGBTQとは自分は関係ない人でもパレードなどに参加する。しかも、お互いにそれを尊重し合う。
こんなエピソードもある。学内のStarbucksの店員さんのネームプレートにも代名詞がついていた。“Katie Chandler, Her”と言った具合だ。彼女を見ればわかる。女性だ。日本では、いちいち「女性」と、ネームプレートに書く必要などないと考える。日本ではあり得ない光景だ。最近の日本では、プライバシーの問題などと言って名前さえネームプレートにつけない。ネームプレートの意味があるのだろうかと思ってしまう。だが、アメリカでは、自分の性に対して敏感で、それを全面に出し、主張する。どう思われるかよりも、個人がどのようにしたいがか最優先されるのだ。
他にも友達に私が自分の体形についてネガティブな発言をしたときに、このように言われたことがある。「体型なんて気にする必要ない、自分の好きな服を着なよ」「人なんて気にする必要ない、Hikaruの意見はなに?」と。英語がなかなか上達しない時に弱音を吐くと、「人と比べる必要はない、自分のペースで英語を学べばいいんだよ」 と私に言う。このように、他人を気にせず、自分自身を大切に生きている人が本当に多い。特に若者はそうだ。
アメリカに来る前のイメージはここに来てより鮮明になり、いい意味で大きく変わった。本当にアメリカは個人と自由をこんなに大切にするのだ。そして、それは日本人の私でも共感することが多く、非常に素敵な生き方でありと実感した。落ち込んでいるときの優しく素敵な言葉がけや自分を大切に生きるという発想は、ここにきて、実感として理解できるようになった。歴史が浅く、多様な発想を持った人が生きる多民族国家であるため、お互いを受け入れるしかないのか、この広大な空間が自由の発想や心を育てるのだろうか。いずれにしてもこの自由と個人という大きな価値観がLGBTQを尊重する考えに繋がることは間違いない。私がアメリカに来ていなかったら、こんなことは考えていなかった。
次に、中国人のクラスメイトについて話してみたい。彼女は中国が嫌いでアメリカに引っ越しを決断したらしい。携帯でも使えるアプリは限られ、X(Twitter)、Instagram、TikTokが使えず、中国専用アプリを使っていたという。実際に画面を見せてもらうと、中国版TikTokと世界共通のTikTokの両方が入っていた。また、街に監視カメラが設置され、社会的な話をすると知らない人に警察に告げ口をされ連行されることもあるそうだ。先日は、授業で政治体制について話し合った時、中国では土地は国家のものであり、個人が土地を売買することは禁止されているという。彼女はどこにいても中国では気が休まらないと加えた。
また、ニューヨークのチャイナタウン行った際、店員さんは、私が日本人だと知ると、日本語を使って話してくれた。日本人は、中国人に対して否定的なイメージを持っている人が多いかもしれない。しかし、実際にこうやって授業やニューヨークで直接中国人と会って話してみると、全くそのようなことは情報不足からくるステレオタイプだということに気づかされる。中国に関する報道は殆どが政治的で否定的である。そうなると私達は中国という国に対して否定的なイメージを持つ。メディアがイメージを作ってしまうのだ。それを私達の知らぬ間に信じてしまい、中国人が皆、困った人達だと思ってしまいがちだ。だが、大学の異文化コミュニケーションの授業で学んだ「接触仮説」ではないが、知り合い、話して、直接的な体験をするとその本当の姿が見えてくる。海外から広く移民を受け入れているアメリカは、様々な人種・文化の人たちが住んでいる。多民族国家であるから、アメリカにいるだけで世界の人々の本当の姿が見えてくる。これが留学のいいところだ。教科書やメディアから学ぶより、直接、当事者から話を聞くことができ、素直な姿と背景にある国家や生活との関係とその複雑さや重みを感じることができる。
最後に、パレスチナとイスラエルの問題についてのエピソードを紹介したい。先日、友達に誘われて、イスラエルへの路上抗議デモに参加した。友達がプラカードを持って、異議を唱えていた。私は、アメリカの問題ではないのに、なぜ抗議をするのだろうと、何の知識のないまま抗議に参加した。しかし、周囲の人々の一生懸命さに驚いた。街の中心の裁判所の前のちょっとした広場で、通りゆく歩行者や交差点で停まる車に向かって、大声でパレスチナを開放せよ、と叫んでいるのである。そこにいたのはアラブ系の人だけでなく、ごく普通のアメリカ人学生もいた。ちょうど、ハマスが突然イスラエルにミサイル攻撃をしかけ、その報復として、イスラエルの地上侵攻が避けられなくなってきたの頃であった。帰宅し、ネットでイスラエルとパレスチナの長い戦争の歴史を調べた。日本にいる母や大学の先生にまでラインで聞いてしまった。そうして、いつもはケラケラとよく笑っている友達がなぜ必死に、路上で街ゆく人々に訴えていたのか理解した。以前からTikTokなどでパレスチナ問題についてはある程度知っていたが、実際に友人らの抗議を見て、事の重大さや自分事としてとらえることの大切さを実感した。そして、考えさせられた。イスラエルのバックにはアメリカがいる、イスラエルはユダヤ人の国で、アメリカではユダヤ人たちの存在は無視できない、イスラエルを無理やりアメリカがその武力によって作ってしまったが、そこにはもともとパレスチナ人が住んでいた、だがお互いの主張をぶつけて人を殺し合っていいのか、と。
私の友達たちは、よく考えた結果、パレスチナ人たちを応援することにしたということだろう。アメリカ人でありながら、パレスチナ側を応援している。しかも、オハイオ大学の学生にはそういう人が多い。世の中の多くの意見に流されずに、自分の頭で考えて、パレスチナ人たちを解放することが一番の問題解決方法だと考えて、草の根の主張運動をしているのである。まさに、“Think globally, act locally”を実践している素晴らしい人たちだ。彼女たちだって勉強で忙しいし、アルバイトや遊びもしたいはずだ。だが、時間を取って、殆ど世の中に影響はないかもしれない運動に参加している。いったい日本人の学生でこのようなことを考え、行動する人がどれくらいいるだろうか。だが、アメリカでは、ごくごく普通にどこにでもいる。
留学して本当によかったと思う。直接的に世界の友人らと対話し、自由で個人を大切にするアメリカ人の言動を自分の目でみた。そして、宗教や世界平和や人権や多様性の尊重という、私達若者が皆考えるべきことに、興味を持ち、見て、感じて、行動するということを体験できた。やってみなければわからないものがある、見てみないと実感できないものがある。多様で広い世界はまさに、そういったものだろう。私の勉強不足、発想の貧弱さ、主張の大切さなどを教えてもらった留学生活である。まだ、合計で1年ほどしか住んでいないアメリカだが、私の志向や行動や価値観、簡単に言えば私の今後の生き方を大きく変えくれた留学生活であった。
あっという間に過ぎていく留学生活
人文学部 英語英米文化学科 2年
青沼 詩月
こんにちは! 私は今8月から4か月間オハイオ大学に留学しています。既にオハイオに来てから2か月が経ちました。長いようであっという間の毎日を過ごしています。
8月25日、私たちは約1日かけてオハイオに到着しました。飛行機の中やオハイオに着いた時は、喜びやワクワクでいっぱいで、これからどんな生活を4か月間送るのだろうかと期待に胸をふくらませてその日は空が明るくなっても寝ることが出来ませんでした。
2か月の間に楽しいことを沢山経験しました。また、新しく発見できたことも沢山ありました。例えば、オハイオの子と友達になって、色々な場所に連れて行って貰ったり、夜が明けるまで寮で語り明かしたり、アメリカに来て私は初めてビリヤードをやりました。オハイオの方々は私のメイクや服装を当たり前のように褒めてくれます。今では日本の友達といるよりもオハイオの友達といる時間の方が多くなりました。
ただ、辛いことや悔しいこともこの2か月で沢山経験しました。自分の英語力不足を痛感することも沢山あります。留学に来る前あれ程毎日英語を勉強したのに、発音が違ったり、話したいことがなかなか英語に変換できなかったり、正直毎日苦労の連続です。
ですが、私のオハイオの友達はそれでも私の英語を一生懸命理解してくれます。どれだけ、文法がおかしくても単語がおかしくても、彼女たちは「あなたは英語を勉強しに来てるのだから、失敗を恐れなくていい。あなたの英語は上手だ」とポジティブな言葉を落ち込む度にかけてくれます。また、時には翻訳機を使って難しい内容や単語は伝えてくれます。
悩むことは決して駄目なことではない。だけど、悩み過ぎると自分のちょっとした成長にも気づくことが出来ないということをオハイオに来てから知りました。自分の英語力に不安を持っていても、周りの子が「英語力上がったね」って教えてくれます。その度に、自分の成長を肌で感じることが出来ます。
留学前は楽しいことしか考えていなかった自分にとって、留学は楽しいことだけではないということを教わりました。ですが、自分の英語力が低いと思えば思うほど、今は落ち込むのではなく悔しいと思えるようになりました。「もっとオハイオの友達と話したい」「もっとみんなと思い出を作りたい」と自分の悩みを自分なりに乗り越えることの出来る方法を考え始めるようになりました。日本にいた頃の自分には出来なかったことが、少しずつオハイオでの生活を通して出来るようになりました。
日本とは離れた国で暮らすということは、先生や家族に会うことは出来ないし、日本に帰りたいと思っても帰ることはできません。私達も自分の生活に精一杯です。 オハイオでは自分の行動力が全てなのだと2か月生活して感じました。友達を作る時や遊びに誘う時、 自分から積極的に話しかけなければ友達を作ることも遊びに行くことも難しいということを学びました。受け身の姿勢でいては、私の留学生活は楽しくならないことに気づき、積極的に話しかけるようになった結果、オハイオの友達は私を見掛けると「Hi! Shizuki」と声をかけてくれるようになりました。
残り2か月しかないことに既に寂しさを感じています。もう二度と会うことが出来ないかもしれない友達と最後まで心残りがないようにたくさんの思い出を作って、日本に帰国出来たらと思っています。また、今回の留学を通して学んだことを多くの人に伝えることができるよう、大切に自分の中で保管して残りの2か月も楽しく、そして自分の中で何か大切なものを得ることの出来る濃い2か月を過ごしたいです。
オハイオで出来た私の親友
ルームメイトと隣の部屋のお友達
オハイオを散歩
サラダに何をかけますか?
人文学部 英語英米文化学科 2007年度卒業
亀山 知佳
オハイオ大学へ留学してから間もなく20年が経過しようとしている。20年という年月にだけ思いを馳せると遠い昔のように感じるが、留学した日々は私の記憶の中に単なる思い出ではなく、人生に多大な影響を与えた4か月として色褪せることなく残っている。
私は、中学、高校と英語が好きではなく、特に中学での成績は常に下から数えた方が早いほど英語に対して苦手意識を持っていた。大学生になり、オハイオ大学へ留学する前の私は、授業は教員からできる限り離れた座席の確保に注力し、自発的に学習することもなく、言われたことをただこなす毎日だった。しかし、オハイオ大学へ留学すると今まで見たことのない光景に衝撃を受けた。現地の授業では前方から席が埋まり、授業中に質問があれば教員が話していても挙手をして質問をする。質問をした学生が納得のいく回答が得られるまで質問を続ける姿を目の当たりにし、これまでの自分の学びに対する姿勢を恥ずかしく感じた。と同時に、passiveな学習ではなく、自ら積極的に動く「activeな学びの楽しさ」を知ったのも留学中の刺激的な授業があったからだ。帰国後、学習意欲は飛躍的に向上し、留学と第二言語習得について研究すると決め大学院に進学した。博士課程まで進み、現在は大学で英語を教えている。
ここ10年、受け持っている学生は、英語に対して苦手意識を持っている理系学生ばかりだ。初回の授業時に「英語が嫌いな人はいますか?」と尋ねると9割以上の学生が手を挙げるほどである。彼らは英語の授業に出席することさえ憂鬱に感じており、いわゆる「英語アレルギー」を持っている。そういった学生たちの英語アレルギーを少しでも軽減できるよう日々試行錯誤しているのだが、オハイオへ留学した経験が一役買っている。授業の中で、オハイオでの楽しかった思い出、失敗談、豆知識、日本との文化の違い、その違いを楽しむ寛容さなど学生に興味を持ってもらえそうな事柄を話す時間を必ず設けている。英語が苦手な彼らは、英語を見たり聞いたりすることすら抵抗があり、留学や異文化にも目を背けている場合が多い。そこで、まずは文化的事柄に興味を持ってもらい、英語に対するハードルを少しでも下げられるよう常に心掛けている。毎授業、私がオハイオでの経験を話す時間になると、それまで下を向いていた顔が一斉に上を向くのである。オハイオへの留学の経験は私だけでなく、私の授業の受講生にまで影響を与えているに違いない。
仕事面以外でも留学経験が活かされている。それは、ある日の小さな出来事であったが、今の私の生活に大きく刻まれている。現在私は2人の子どもの育児に奮闘している。留学と子育ては無関係のように思えるが、留学中のある出来事が子育てに非常に役立っている。長男が幼い時、「こだわり」が強く、いつも「そこ」にあるものがなかったり、「いつもとは違う」順番で物事を行うと、火がついたように泣き喚き、その火消しに苦労した。臨機応変に対応することが難しく、とにかく「こだわり」が強い長男に当時は手を焼いていた。そんなある日、オハイオ大学留学中のある日の出来事を思い出した。それは、食堂でルームメイトや寮の友人と食事をしていた時のことである。「サラダには何ドレッシングをかけるか?」というサラダドレッシング論争が巻き起こった。ドレッシング大国と呼ばれるアメリカらしい討論会が始まり楽しいディナーであった。シーザー、ハニーマスタード、サウザンドアイランド、ランチ、オリーブオイル、何もかけない、サラダの種類によってドレッシングを変える、など回答は三者三様だった。それを選んだのには皆理由があり、中にはこのドレッシング以外あり得ないと熱弁する友人もいたほどだ。その出来事を思い出し、人は誰しも「こだわり」があるのだと気づいた。世の中に「こだわり」がない人はいないのである。我が家の食卓も然りだ。目玉焼きに醤油をかける父、ソースをかける母、塩胡椒をふる主人、何もかけない私、家庭内という狭いコミュニティーですら、「こだわり」があり、皆違う「こだわり」を持っている。その「こだわり」の正体は「個性」であり、尊重されるべきものなのだ。長男の「こだわり」も「個性」として捉えられるようになってからは、その個性を認めることができ、長男との向き合い方も大きく変わった。今では幼い頃に手を焼いていた長男の個性も頼もしいと感じるほどである。
オハイオ大学での思い出は数えきれないほどあり、College Greenで見たホタル、独立記念日の花火、自分の英語力に涙した日、テスト前に夜中まで図書館で勉強したこと、ルームメイトと好きなバンドについて語り合った夜、どの思い出も昨日のことにように鮮明に覚えている。その中でもドレッシング論争は記憶に大きく残る出来事ではなかったが、これがなければ、「こだわり」について今でも悩んでいたかもしれない。私にとってオハイオ大学での全ての経験が一生忘れない大きな財産となっている。
ドレッシング論争をしたルームメイトと寮の友人
視野が一気に広がり、コミュニケーションに苦手意識がなくなった
国際関係学部 国際文化学科 1998年度卒業
大島 智之
私は1996年にオハイオ大学長期研修に参加し、約4か月間、オハイオ大学に滞在した。この4か月という短い期間の滞在が、その後の私の人生に多大な影響を与えているのは間違いのない事実であり、今までの人生を振り返った中で一番輝いていた時間だと言っても過言ではない。なお、オハイオ大学で20歳の誕生日を迎えたことは思い出深い。
現在、私は税理士として会計事務所の経営をしており、職業柄クライアントの社長と話すことが多いのだが、そこでもこの4か月で得た経験が生きていると感じている。多感な時期に過ごした4か月間で、具体的に私が感じたこと、大きく変わったことを以下にシェアしたいと思う。
①視野が一気に広がった
研修中にオハイオ大学の夏休みがあったため、その期間を利用してアリゾナ州のグランドキャニオンを訪れた。そこで見た景色は衝撃的だった。よく、「人の悩みなど宇宙の長い歴史からすればほんの些細な事だ」というようなことを言われるが、それを体感した瞬間だった。それまでの20年間で育まれた価値観や常識、ルールといったものが実はそれほど大したものではなく、もっと広い視野で物事を見ることが出来るようになった瞬間だったと思う。なお、グランドキャニオンの衝撃は非常に大きく、その影響でアメリカにある他の国立公園も見てみたくなり、翌年の夏休みに約1月半の国立公園巡りの一人旅をした。ヨセミテ、イエローストーン、ブライスキャニオン等、さまざまな国立公園を巡り、そして卒業論文のテーマも「アメリカの国立公園」にしたほどだ。このグランドキャニオン訪問は私の人生のターニングポイントだったのかもしれない。
②コミュニケーションに苦手意識がなくなった
さまざまな国・地域・人種・宗教の学生と触れ合ったことにより、伝えること、聞くことの重要性を再認識した。残念ながら約40人の同級生と一緒にプログラムに参加し、積極的に「英語漬け」の生活を送ることをしなかったため、語学力の向上という観点では大きな成果は出なかったと思う。ただ、今とは違い、スマホなどが一切無い時代だったので、自分の考えを身振り手振りを交えながら脳みそフル回転で必死に相手に伝えるという経験ができ、それにより表現力が豊かになったと思う。表現力が身についたことにより、年齢・性別を問わず、どんな人ともコミュニケーションをスムーズにとれるようになった。それまでは異性の友人というのは数えるほどしかいなかったが、帰国後はむしろ異性の友人の方が話が合い、その数が一気に増えたのは面白い現象だ。
現在の日常生活や仕事の場面で英語に接する機会は皆無であり、特段英語学習も続けていないため英語の語学力というのはその当時がピークだったと思うが、このコミュニケーションに苦手意識がなくなったというのはその後の人生において大いにプラスに働いているのは間違いない。
③最後に
私は中部大学入学後にこのオハイオ大学長期研修プログラムのことを知った。最初はまったく参加するつもりもなかったのだが、入学後に仲良くなった友人たちが次々に申し込みをしているのを見て、つられて参加した形だ。だが、人生を変えたこの長期研修プログラムに参加して本当に良かったと心から思う。
実は私の妹も中部大学に入学をして、同じようにこのオハイオ大学長期研修プログラムに参加したのだが、事前に私から細かい部分も含めた話を聞いて期待値が上がりすぎていたせいか、特段感動をするような経験もなかったそうだ。そういう意味では、逆に妹に悪いことをしてしまったなと思う。もし過去の自分にアドバイスを送れるのであれば、「もっと英語漬けの生活を送りなさい!」とは言わないと思う。友人と夜な夜な宅配ピザを取り、大いに語り合った日々は何事にも代え難い体験だ。「思いっきり異文化を楽しみ、一生懸命テスト勉強をし、一日一日生きているなと実感できる、そんな生活を送るように」と伝えたい。ただ、「妹にはあまり事前に情報を伝え過ぎないように!」とは強く伝えたい。
グランドキャニオンにて
ヨセミテ国立公園にて
私のアメリカ経験
人文学部 英語英米文化学科 4年
山下智子ケイ
初めてのアメリカでたくさん学ぶことができました。
一つ目がコミュニケーション力です。それは、文法の正確さよりも、気持ちを伝える意志が大切だと学べました。こうすることにより相手も理解しようとする姿勢になってくれることに発見できました。
二つ目は、コミュニケーションの向上力です。どうしてもなれない言語で会話を盛り上げるのは難しい部分があると感じました。そこでわたしは、いかに相手が楽しんでもらえるかに注目を置きました。そうすることでお互い楽しい会話になるようになれました。
三つ目は、アメリカ人のお金持ちはすごくて、桁が違いました。アメリカンドリームを実際に肌に感じることで自身の目標を見つめ直し、より高い目標を設定しました。アメリカンドリームの実感は、将来の努力を励起させました。
最後に4つ目は、やっぱりアメリカだからこそ味わえた多様性です。異なる文化やバックグラウンドを持つ多くの人々と交流することで、新しい世界を知り、偏見を排除し、より平等な視点を持つことの価値を認識しました。この価値観があるからこそ、世界中の人々と仲良くでき、彼らの楽しみ方を学び、共感し、実際に感じることで、私の人生が一層明るく豊かになると感じました。
Life at OU shaped who I am today
M.A. International Development Studies, Ohio University 1997, B.A. International Relations, Chubu University 1995
Erika Okamoto Nomura
During my study abroad experience at OU in my early 20s, everything I saw and did was full of surprises, especially during the first few months. There were times when I was able to enjoy and just laugh off my culture shock and the mistakes I made due to my lack of English skills, but there were also many days when I was overwhelmed by the difficulty of communication and language barrier.
Living abroad definitely helps people to grow and become more independent. You have to do everything by yourself; admission procedures, dormitory and meal plan arrangements, opening a bank account... I definitely found a new confidence in myself after finishing all the tasks in English on my own. However, this turned out to be only the beginning of the academic struggles/adventures that would follow later on. Class participation, assignments, social events and daily life in general could have been much easier and more beneficial if I had a better command of English language and communication skills. I can’t say enough on this point.
During my two and a half years at OU starting in May 1995, I learned that the US was an advanced country whose society as a whole was probably 20 to 30 years ahead of Japan. Computers were used much more widely than in Japan. The quality of education was very high with discussion-based classes and a huge amount of reading assignments and homework. I was also impressed that the textbooks were written in an easy-to-understand manner. Economics textbooks written in Japanese were filled with difficult terminology and thus hard to understand, but an economics textbook in English I read talked about for example the ticket prices for Rolling Stones concerts in order to explain the relationship between supply and demand. I know that being able to receive higher education in your native language (Japanese for me) in your own country is something you should feel blessed with and be proud of, but I was shocked when I found out that I can learn things much easier with books written in English than in Japanese.
I was also surprised by the diversity of American society. OU had many international students from all over the world, so obviously there was racial and cultural diversity. In addition to that, the social participation of people with disabilities seemed to have been more generally assured than in Japan. In Athens, I saw elderly and physically disabled people in electric wheelchairs, and a first-year female student I met in the dormitory I was living was wearing hearing aids and understood conversations by looking at people's lip movements. She was the one who showed me how to display subtitles on TV. There was no subtitle service available in Japan yet, and this technology was a lifesaver for international students like me with poor English skills. Another event that surprised me was that a girl living in the same dormitory made it public that she was a lesbian and that she participated in an LGBTQ+ rally on campus. There was also a student from Japan who had amblyopia or in other words, weak eyesight. I thought he was very brave and cool and he made a wise decision to study abroad in the US where sufficient social support was available for him. Differences in nationality, race, gender and disability were accepted as they were, and fully respected. I felt wonderful and comfortable to see that everyone’s human rights were respected.
Cross-cultural experiences and meeting a wide variety of people influence and change your personality. I became a more laid-back, open-minded, positive and cheerful person compared to who I was in Japan. I also became a person who is not afraid of making mistakes, not worried about talking to new people, asking questions and asking for help. If you don't speak up, no one will help you. This positive personality change definitely has helped my days even after I came back to Japan and explored my personal life and career.
In addition to that, it is needless to say that my master's degree from OU and English skills surely contributed to finding a job and building my career path. I worked at the Ministry of Defense as a civilian officer for twenty years until last year. I was a foreign liaison officer coordinating and facilitating meetings and projects, and I also acted as an English translator and interpreter. I like cross-cultural exchanges so it was always exciting and fun to work with people from various countries. Among my counterparts at the U.S. Department of Defense, there was a person who also graduated from International Studies at OU (who was much senior to me), and we were happy to share common memories. We bragged about the shops and restaurants we each enjoyed in Uptown each time.
You must study hard and improve your skills for accurate translation and interpretation. As for liaison work, you also need to be a good communicator with a positive spirit to push projects forward. The job was always challenging, intellectual and exciting, and at the same time, it often made me feel nervous and stressed out, especially when I had to interpret during meetings. So I always felt a great sense of fulfillment every time a big project was completed.
A career in national security comes with great responsibility and difficulty but I am happy that I was able to commit to my role and contribute. Hard work, perseverance, understanding and respect for different cultures; everything I learned from life at OU surely supported my journey. I took a break at age 50 last year to prioritize my time with my family and to freshen myself up physically and mentally. I am looking for my next step now, so the request to write this essay came in at the perfect time! I am excited to create an even more positive and enjoyable future.
Catwalk in South Green
Petition campaign for human rights in Burma at Alumni Gateway
日本に来てくれてありがとう!!
人文学部 英語英米文化学科 3年
高橋 樹里奈
私はオハイオの4か月のプログラムには行っていません。ですが、私の友達を通して、中部大学に来てくれたオハイオからの二人の女の子と、もう一人の私の友達を通しての、二人の男の子と交流することができました。
私は友達とラーメンに行くことになり、そこで二人の女の子と初めて遊ぶことができました。ゼミに一度遊びに来てくれた時が初めての出会いでしたが、隣に座ってくれて、とても緊張したのを覚えています。一緒にラーメンを食べたり、スタバでお茶をしたりなど、とてもいい思い出になりました。
2回目はみんなでボーリングをしました。彼女たちは、とてもボーリングが上手でした。ゲームで私がうまくいくと褒めてくれて嬉しかったです。私は、彼女たちと3回目に会った際に、日本語がすごく上達していることに驚きました。彼女たちを褒めると、とても頑張ったと言っていて、すごいと感心しました。
次に、二人の男の子との出会いです。最初は、友達から、岡崎の花火大会にアメリカから日本に観光で来てくれている子達を連れていきたいということで私も一緒に行くことになったのが始まりでした。私は、出店の列に並んでいる際、一人の男の子と会話する機会がありました。主に将来の夢の話をしました。彼は、来年から海軍の事務関係の仕事をすると言っていました。なので、卒業前旅行はこれが最後だと言っていました。私は、日本を選んでくれたことにとてもうれしく思いました。彼らは、私の地元である静岡県浜松市にも遊びに来てくれました。浜松はとても住みやすく、自慢の地元です。私は彼らと竜ヶ岩洞に遊びに行きました。その後、近くの川で遊びました。夜は彼らの大好きな海鮮系居酒屋へ行きました。彼らは日本の居酒屋が大好きだと言っていました。私も同じく大好きです。もっと日本の居酒屋の魅力を外国の人々に伝えたいほどです!!
その他にも、友達と彼らと4人でカラオケに行きました。私はとても音痴で歌に自信がありませんでしたが、楽しく歌うことができました。それと、皆んなで名古屋港水族館へも行きました。彼らが私達の分のチケットを事前に用意してくれていたことに、とても申し訳ないと思いました。私は、彼らが日本に来るためにコツコツ地道に貯金をしてきたのだろうと想像しました。大学生でお金を貯める大変さは少し分かるので、貯金して日本に来てくれたことをとても嬉しく思いました。
彼らに出会えたこと、とても嬉しく思います。絶対一生忘れないと思います。そして、出会わせてくれた私の友達には、感謝でしかありません。本当にありがとう!
竜ヶ岩洞
ボーリング
友達とアメリカの2人のお友達
今までにない体験
人文学部 英語英米文化学科 2年
田中 愁大
私は現在オハイオ大学への留学中です。まだ2か月程しか経っていませんが、現地で感じる何もかもが新鮮で、自分の価値観が大きく変わりました。
食事や文化など日本にいては感じることのできないことばかりです。今はもう日本に帰りたくないなと思えるほど現地での生活は充実しており、この機会を与えてくれた親や、学校、関わっていただいた全ての人たちに感謝でいっぱいです。
自分の英語力はまだまだですが、この留学を機にもっと英語を学ぼうと思えました。自分の将来はまだ不確定で夢などもありませんが、きっと自分の人生の中でこの経験は一生忘れられないものとなり、自分自身を人間性から考え方まで、色々な面で成長させることのできる機会になったと思います。
アメリカでの生活を存分に楽しんで悔いの残らないようにしたいと思います。
オハイオ大学留学はグローバルに活動するための「パスポート」
中部大学大学院 国際関係学研究科 博士前期課程 2003年度修了
オハイオ大学大学院国際学東南アジア研究科2006年修了
木村 健二
私は2006年6月にオハイオ大学大学院・東南アジア地域研究科で修士号(M.A.)を取得し、その後インドネシア、オランダ、マレーシアなどで仕事や留学をしてきた。振り返ると、オハイオ大学留学は、グローバルに活動し、キャリアを積んでいくための「パスポート」のようなものだった。
私の場合、これがまずインドネシア行きのパスポートになったのは、専攻が東南アジア地域研究だったことが大きい。東南アジア地域研究とは、その名の通り、東南アジア地域の特定の国や地方を選び、多角的に考察、分析しようとする学問分野である(interdisciplinary program)。オハイオ大学は、東南アジア地域研究において、全米の中でも最も長い歴史を持つ大学の一つと言われており、東南アジア諸国から多くの留学生を受け入れている。オハイオ大学大学院・東南アジア地域研究科は、私が在籍していた当時、特にインドネシアとマレーシアについての研究に力を入れていたが、これらの国以外にも、タイ、ベトナム、カンボジアなどからも留学生を受け入れ、研究が進められていた。私は、このプログラムで、インドネシアを初めとする東南アジアからの留学生、また東南アジア地域に関心を持つアメリカ人の学生と共に切磋琢磨した。ここでの出会いが、その後のキャリア形成においても、大きな財産となった。
特にインドネシアからの留学生たちが、私を仲間として受け入れてくれた理由の一つは、私がインドネシア語を学び、拙いながらにインドネシア語でコミュニケーションをとっていたからだと思う。オハイオ大学大学院・東南アジア地域研究科では、東南アジアの言語の履修が必須とされていた。インドネシア語/マレーシア語(この2つ言語は元は同じのため1つの言語として括られていた)、タイ語、ベトナム語の3つの選択肢があり、どれか一つの言語を大学院の開始から修了まで(全6クォーター)履修しなければならなかった。インドネシア人講師の指導の下、アメリカ人のクラスメイトと私の二人のみの超少人数で、ほぼ毎日インドネシア語を学んだ。インドネシア人留学生の多くは、アメリカで出会った拙いインドネシア語を話す日本人の私を応援してくれて、オハイオ大学在籍中に行った、バンドン工科大学(ITB)でのインドネシア語の語学留学や、女性に対する暴力に反対する政府の人権委員会(Komnas Perempuan)でのインターンシップでも、色々と世話を焼いてくれた。ここで作った人脈とキャリアが、後に私をインドネシア現地でのキャリア形成へと導いた。
そして次に、これがオランダ行きのパスポートになったのは、オハイオ大学大学院修了後に、中部大学・人間安全保障研究センターで研究員を務めた際の共同研究者との出会いと結びついている。中部大学・人間安全保障研究センターは、「グローバル都市ネットワークにおける人間の安全保障」というテーマで、米国、タイ、オランダ、メキシコ、セネガルと国際共同研究を行った。この中で、オランダのフォーカルポイントは、オランダ社会科学大学院大学(ISS)という研究機関で、ISS所属教員のタンダム・トゥロン(ThanhDam Turong)先生が共同研究者であった。偶然にも、タンダム先生は1960年代~1970年代にオハイオ大学で学士号と修正号を取っており、オハイオ大学の大先輩であった。「何故、オハイオ大学を選ばれたのですか」と質問したところ、「オハイオ大学の図書館・Alden Libraryの名前の由来となっているAlden先生と自分の父親が友人で、オハイオ大学を勧められたから」と教えてくださった。タンダム先生とは、オハイオ大学を共通点に様々な話をして親交を深め、後に私のオランダでの博士課程の指導教官まで務めてくださることになった。
最後に、これがマレーシア行きのパスポートになったのは、上述した、オハイオ大学在籍中にインターンを行った、女性に対する暴力に反対する政府の人権委員会(Komnas Perempuan)での出会いと結びついている。私が初めてマレーシアに行ったのは2012年だったが、当時マレーシアでの人脈はほぼ皆無であった。そんな中、同人権委員会で私の現地調査のサポートをしてくれたタティ・クリスナワティ(Tati Krisnawaty)さんが、彼女の親友で、女性、移民、難民の権利擁護のために活動するマレーシアのNGOであるTenaganitaの代表を務めていたアイリン・フェルナンデス(Irene Fernandez)さんを紹介してくださった。アイリンさんは、私をTenaganitaのインターンとして受け入れて下さり、アイリンさんの娘の家でルームシェアまでさせてくれた。マレーシアでの生活も、オハイオ大学大学院・東南アジア地域研究科で学んだインドネシア語/マレーシア語が活かされたのは言うまでもない。
私は現在、東京で、日ASEAN協力の仕事をしているが、これもオハイオ大学大学院・東南アジア地域研究科での経験や、そこで出会った仲間たちとの関係が無ければ、実現していないだろう。これからもこの「パスポート」を大切に、グローバルな活動を続けていきたいと思っている。
OUでのインドネシア語のクラスにて
Sakura FEstivalで結成したAthens SMAP
ジャカルタでのOU同窓会
留学と国際的なキャリア構築の魅力
国際関係学部 国際関係学科 1998年度卒業
廣瀬 豪保
私はオハイオ大学への留学を通じて、異文化理解、コミュニケーション能力、そしてビジネスパーソンとしての教養を培いました。これは、オハイオ大学と中部大学の特別な姉妹校提携プログラムを活用したことにより可能となりました。以下に、私の留学経験とキャリアにおける影響を紹介します。
オハイオ大学への留学は、計3年間にわたりました。この期間中、私は多くの新しい経験を積み、国際的な視野を広げました。
中部大学在学中には、オハイオ大学への1年間の留学を果たしました。この留学は、私が中部大学初代として文部科学省から認可を受けた単位互換制度を活用することで実現しました。当時、この制度はまだ存在しておらず、私は中部大学とオハイオ大学の学費を両方で負担しなければなりませんでした。親には大変申し訳ない気持ちに駆られましたが、同時に失敗は許されないという覚悟を持ちました。この覚悟が私を鼓舞し、オハイオ大学で高度な専門分野の科目に取り組む原動力となりました。その結果、中部大学を4年で卒業することができました。
また、大学院進学時には、チャールズ・J・ピン特別奨学金を受け、MBAを取得することができました。このMBAプログラムは、私のキャリアにおいて最も学びの多い期間でした。授業やプロジェクトに没頭し、時には午前9時からのプロジェクト発表準備が明け方まで終わらず、徹夜で作業をすることもありました。この過酷な経験は、自己を追い込み、事業の厳しさに対する免疫を身につける契機となりました。また、このMBAプログラムで出会った同級生とは今でも深いつながりを持ち、共に苦労し学び合った仲間として大切にしています。
留学経験は、異文化理解、コミュニケーション能力、ビジネスパーソンとしての教養を養う上で非常に重要でした。これらのスキルは、私が現在担当しているポジションで大いに活かされています。現在、私は東京にある外資系眼鏡レンズ会社で事業本部長として、グローバルマーケティングと事業開発を担当しています。毎年、2桁%の成長を実現し、私のチームは背景やキャリアが異なる6カ国の国籍を持つメンバーから成り立っています。それぞれのプロの領域を活かすことで、ダイナミックなプロジェクトを計画し、実現しています。
MBA取得は私のキャリア構築に大きなプラスの影響を与えました。比較的早い段階から裁量の大きな仕事を任せてもらえるようになり、国際的な経験も積むことができました。現在の会社では、3カ国(カナダ、シンガポール、アラブ首長国連邦ドバイ)への駐在チャンスに恵まれ、30カ国以上で仕事をする機会を得ました。それぞれの拠点では、エリア内のカントリーマネジャーと協力して事業計画を策定し、実行してきました。
特に、ドバイでの駐在時には事業開発責任者として、中東クエートでの現地代理店との協力やGCCエリアを担う販売拠点、レンズ製造ラボを持つJoint Venture会社の立ち上げ責任者を務めました。中東という文化や価値観が日本とは大きく異なる環境で、人材採用や契約交渉、ローカルパートナーとの関係構築に挑戦しました。これらの経験により、ローカルチームと共に成功を収め、メンバーやパートナーから感謝される立場になることができました。
現在の職務では、オハイオ大学留学時に習得したコミュニケーションスキル、異文化理解、ネゴシエーションスキルを存分に活かすことができています。もしオハイオ大学への留学やMBA取得がなければ、私のキャリア形成は一回り遅れていたでしょう。中部大学とオハイオ大学の留学制度、そして教授陣には、他に類を見ないほど恵まれた環境がありました。在学中に塩澤教授から様々なアドバイスを受け、それが私の成長に大きな影響を与えました。
最後に、オハイオ大学で妻に出会えたことも私にとっては一つの宝物です。留学が私のキャリアだけでなく、人生そのものに大きな影響を与えたことを誇りに思っています。これらの経験を通じて得た教訓は、今後も私のキャリアの指針となり、新たな挑戦に向かう勇気と力を与えてくれます。
MBA卒業式にて
40 Years in Athens
1983年中部大学工学部卒業、オハイオ大学 Civil Engeering MA program 入学
Faculty of Civil Engineering at OU since 1996
Teruhisa (Terry) Masada
I am honored to contribute a short essay on the 50th anniversary of the Chubu University-Ohio University friendship. I arrived at the Athens campus of Ohio University in June of 1983 as an exchange student from Chubu Institute of Technology. The first few months in Athens were rough, as I struggled daily to become accustomed to the language, food, currency, and traffic patterns in the U.S. It was also a period of rapid personal growth. Living in Boyd Hall, I met graduate students from all over the world and realized quickly how ignorant I was about other cultures and how we humans are all fundamentally the same. The first American student I befriended was a young guy who was into Geological Science and Karate. He asked me which martial arts I excelled at. When I replied that I practiced none, he could not believe his ears. He thought all Japanese men had to be good at one type of martial arts. He took me to his family home one weekend, where his grandfather taught me how to load and shoot a rifle.
During the first academic term I met a graduate student from Indonesia. He was older, smart, and married. I noticed that he acted very cool toward me for a while. Later as we got to know each other, I learned that he grew up listening to his grandfather’s dark stories about what happened in Indonesia during WWII. This experience made me have mixed feelings about Japan’s past.
As the initial excitement of living in the U.S. wore off, I got homesick occasionally. This was treated by writing letters to my parents, reading manga books, and going to a local Chinese restaurant Lamb’s Garden. As far as my English abilities were concerned, I had to immerse myself in the language 24/7. Once I learned how to think in English, everything became easier. I obtained the master’s degree in Civil Engineering in early 1986. Then, I secured an entry-level civil engineer’s job at a consulting firm in Dayton, Ohio.
It has been about 40 years since the first day I walked on the campus of Ohio University as a young naïve guy. You can still find me living in Athens and working at Ohio University. I never moved back to Japan. I managed to attain a doctoral degree and become faculty of Civil Engineering in 1996. This position at Ohio University allowed me to educate many young students, serve my department and college through committee activities, and travel to many conferences. Also, I got married in Dayton and raised my daughter here in Athens. My life has been totally impacted by the close relationship forged between the two fine universities. I have become somewhat Americanized and lost a lot of my Japanese language skills. But, I still call Japan my home and regard Japan one of the most beautiful and special places on Earth.
One last thing I would like to mention is that I spent time with Dr. Tanaka more than a few times when he was working for the Physics Department at Ohio University. We all owe the late Dr. Tanaka a lot for his vision and leadership.
Recent photo of myself taken by Golden Gate in San Francisco, CA
ドイツと日本の24時間は平等ではない?
人文学部 英語英米文化学科 2017年度卒業
植田 海輝
私は現在ドイツの日系商社で働いている。ドイツ語が全く話せないなか、卒業後2年ほどして渡独し、現地就職を経て、現在の生活を築くまでは言葉では説明できないほど大変な適応過程であった。しかしオハイオ大学での長期研修や、外務省からアメリカのデトロイトへ派遣された「カケハシ・プロジェクト」を経験したことから、今後も必ず海外でやっていけるという妙な自信だけはあった。日本とは異なる環境や文化の中で生活し、世界共通語の英語を学ぶことで、他の国で挑戦できる自信にも繋がった。仕事面ではドイツでの生活を通して価値観が変わり、視野も格段に広がったと感じる。
ワーキングホリデーでドイツに来て以来4年の年月が経った。現地でホテル生活から始まった私の人生は今ではかなり落ち着き、価値観も日本にいた時と比べ、かなり変わったものだ。今振り返るとアメリカ留学なしに現在の生活は到底成し遂げられるものではなかっただろう。知り合いもいない異国の地で生活を一から始めることは想像以上に過酷なものであり、唯一の強みとなったのは留学や大学の講義で身につけた英語能力・異文化適応能力のみだ。オハイオでの生活、ドイツでの4年間を通して学んだことは山ほどあるが、私が最も大事だと考えるようになった仕事に対する価値観の変化をテーマに書き進めていこうと思う。
私は大学卒業後日本の企業に就職したが、約2年後に退職、渡独後も1度転職を経験している。日本で転職と聞くとまずマイナスのイメージを持つ人が多いだろう。人それぞれ考え方は異なるため何が正しいのか、どの選択が自分を幸せに繋がるかは誰にも分からない。また国によっても文化が異なるため人それぞれ意見は異なるだろう。ドイツで生活を始めて私が学んだことは、しっかりと自分の芯を持ち、自身を信じることの大切さだ。日本では一般的に3年間は同じ企業に勤めなさいという言葉をよく耳にした。また慎重な国民性からか、新しいことを始めることに消極的な人が身の回りでは多かったように感じる。しかしドイツの友人やビジネスパートナーと話していると、ほとんどの人が自分の軸をしっかり持っており、新しい環境や物事に積極的に挑戦をすることをためらわない。自分のやりたいことが変わったり、労働環境が合わないと感じた時は、無理に長期間同じ場所で働き続ける必要はないと考える人も多い。自分への可能性と視野を少しでも広げ、信じた道・やりたいことを躊躇せずやってみることの重要性をアメリカ留学とドイツでの生活で実感している。
日本とドイツでの働き方の違いについて少し触れてみたい。日本では大半の人が何事も不自由なく安全に毎日を過ごすことができる。それも勤勉で周りを尊重できる文化によって生み出された結果であり、私自身日本で生まれ育ったことは本当に感謝している。しかし私が今まで見てきた日本の社会人は頑張りすぎているようにも感じる。時代の変化につれ日本社会も少しずつ変わってきてはいるが、毎日仕事で疲れ果て、自分や家族へ十分な時間を作ることができていない人を身の回りでとても多く見かける。日本で勤務していた時は当たり前のように残業・休日出勤があったが、それに疑問をもつことはなかった。
しかし仕事とプライベートを両立させているドイツで生活していくことをきっかけに、以前のライフスタイルを見直すきっかけとなった。私は日本で何のために働いていたのか。毎日残業をしてまでやっていた仕事は本当にその日のうちに終わらせるべきことであったのか。仕事以外で自分への時間はどれほど作れていただろうか。なぜ終業時間を超えてもオフィスに残ることが美徳とされているのか。ドイツで生活している現在、このような疑問点は何一つとしてない。こちらの生活は日本ほど全て完璧ではないが、一人一人がプライベートの時間を大切にし、生活にも余裕がある。仕事を終えた後も個々の趣味、自分や家族との時間をとても大切にしている。ドイツでは無理をして全て完璧にこなすことよりも、多少の不便があったとしても個々が幸せに暮らせる環境を優先すべきだという考え方が多数派だ。多少の不便さの中でも生きていけるし、生活に余裕が生まれることで、新たに趣味や学びを得ることもできる。自身の健康、幸せ、成長なしに他人や社会を幸せにすることはできないと考えるようになったのも留学やドイツでの生活の影響だろう。
渡独後ワークバランスの向上により、日本での社会人生活時に比べプラス6時間ほど自由時間が増えた。1日24時間、皆平等に時が流れていく中でどのように毎日を過ごすかは自分次第だと感じている。このように留学と海外生活を経験し、最も大きく私に影響したことは、上記のような仕事や生活に対する価値観の変化であった。さらに、語学力の向上は言うに及ばず、自分自身への自信にも大きく繋がったと思う。いま振り返ると、アメリカ留学や異文化経験なしに今ほど充実した毎日は送ることはできなかっただろう。
Language, the Sculptor
Ohio Alumni and Exchange Student to Chubu
Chris Hartsel
You often hear that the complete college experience is about “finding yourself”, as if it’s a sculptor of identities. I have a different perspective. I believe that discovering yourself is an outgrowth from an individual’s ongoing pursuit of knowledge and embracing new experiences. Furthermore, I believe that it is the outward exploration into the unknown that forces us to introspectively acknowledge our true character. As Martin Heidegger states, “Man acts as though he were the shaper and master of language, while in fact language remains the master of man.” Learning a new language is naturally an adventure into a new cultural mindset, as both are inextricably linked. That’s why a journey into a new world while trying to master a new language and navigate an entirely new culture is ultimately the pursuit of oneself. That, for me, articulates my encounter through my study abroad trips to Japan. Let me provide you with a piece of my journey.
“From this point forward, you have no rights.” I remember those words I heard from my guide and professor, Dr. Chris Thompson, as we disembarked and lined up in customs. This harsh notice was the sobering revelation that we were no longer home. This was the first of many reminders that I have become a black speck on a white blanket. From that point forward, I would have to choose between remaining true to myself and true to the societal expectations of an adult member of Japanese society. This is a delicate balance facing foreign nationals seeking acceptance in an insular and sometimes xenophobic country like Japan. Japanese people extend their grace generously to foreigners who just don’t understand or comply with societal norms. However, as someone seeking acceptance, I knew that I didn’t want to abuse this privilege. So, I decided to forge ahead with my best effort to remain true to myself while trying to respect the culture. If I remained a good student, I knew that my teachers would guide me with the latter. The former was the real challenge. Not because remaining true was a violation of personal scruples. But, how could I remain true to myself if I don’t actually know myself? At that time, I didn’t know that Chubu was uniquely offering the experience I needed to accomplish that task. Spending time in Japan is where I found the freedom within structure to enhance and develop the qualities I found central to my being.
It was through my study abroad tours at Chubu where I developed a sense of self and the confidence to develop in my professional life following my college graduation. I often describe Japanese culture as a 180 from American culture. From the linguistical syntax to the cultural idiosyncrasies, Japan can simultaneously confuse and amaze the American explorer. While human fundamental values appeared universal, these new rules of engagement forced me to reexamine my own approach. As I continued to progress through my proficiency, I effectively had to become two people: Japanese self and American self. Neither one completely represents who I am entirely and my submersion into one doesn’t neglect the other. When you attempt to assimilate, this development is automatic. It is a biproduct of your pursuit. I’d like to share a story that exemplifies this truth.
I can recall in the beginning of my second year studying abroad hearing my language instructor inform us that we had reached the point in our Japanese proficiency when we were expected to essentially act Japanese, or we might offend our Japanese counterparts. We were learning the effective use of the passive tense of verbs. My two other class peers were Korean. In Korean and American cultures, we speak very directly. For example, the subject acts upon the target with an object. In Japanese, we convey the message indirectly, meaning, the object becomes the subject. The passive tone is pervasive throughout the language and reflects the cultural approach to conflict. While I felt a sense of pride in the first of few compliments from my Japanese instructor, I also felt a shift in my focus in my inquiries and responses to those I encountered. This increased awareness offered me the opportunity to approach all circumstances with a sensitivity that respected the indirect method of communication. From answering “no” in a softer manner, to asking for help in any given circumstance, I had to recraft my approach and, in turn, trial new methods of expressing myself. There were times when I encountered conflict with strangers and I could feel my excitement within me rise. I would feel a sense of what I wanted to express through a direct translation from English. Fortunately, more often than not, in my more advanced development, I consider my attempts at this indirect approach to have been successful. The question someone from my culture might ask “For what purpose do you take this approach?” The answer is easily understood if you’ve absorbed your surroundings in Japan. While Japan is not “one nation under God”, you can certainly feel God’s presence, as there are undeniable cultural vibrations of harmony and peace. While there are certainly exceptions because we are all human, it is undeniable that the Japanese people maintain this societal balance through action and language. This interaction with the people around me fostered a part of me that seeks to reconcile differences in feuding parties. I naturally took to the notion of modifying my linguistical style to soften my messaging. I found that I wasn’t disobeying my true self by recalibrating my mindset, but feeding a version of myself that otherwise remained dormant. It was my ability to adhere to this appropriate conduct of an adult communicator within Japanese culture that made me a more peaceful colleague in my professional career.
In the end, my journey through Japan and the immersive study abroad experiences at Chubu University revealed a profound truth about my identity. I've discovered that I am no longer entirely American nor Japanese, but a hybrid who constantly shifts the balance within my cultural tactics. Each role I assume becomes an extension of my multifaceted identity. My ability to adapt and thrive in both cultures has been a transformative process, one that has shaped me into a skilled communicator.
Throughout my time in Japan, I navigated linguistic and cultural nuances and found a unique balance between my American self and Japanese self. In my seven years of working in a bilingual setting alongside Japanese natives, I've come to appreciate the value of cultural convergence and effective communication.
In conclusion, my pursuit of knowledge about Japanese language and culture led me on a remarkable journey of self-discovery. As Martin Heidegger noted, language shapes us. Learning a new language and immersing myself in a new culture was an adventure that broadened my horizons and allowed me to unearth and develop core qualities that I might have otherwise neglected. This transformative journey ultimately shaped me into a skilled communicator who can navigate diverse cultural landscapes. My time at Chubu University provided me with the structure and freedom to enhance my understanding of myself and Japanese culture. I've learned that true self-discovery is an ongoing process, and it's often the pursuit of knowledge and the embrace of new experiences that reveal a clear path to understanding one's own character.
All once Chubu students, reuniting in 2023
Another 2023 reunion of Chubu students
My son, Chita-shi playground 2023
最高の経験と出会い
工学部 機械工学科 2年
岩田 虎汰郎
2023年の2月から6月までオハイオ大学へ留学していました。私の専攻は機械工学ですが、将来国際的なエンジニアになりたいと考えていたため英語スキルの向上と文化、新しい“刺激”を求めて参加しました。
控えめに言っても最高の4か月間でした。帰ってきてしばらくたつ今でも、今すぐにアメリカに行きたいと思ってしまうほどです。
自分から話しかけに行って、友達を作り、たくさん遊んで、一緒に勉強をして、英語だから簡単にはコミュニケーションがとれないことがあったけど、それもスキルアップであり、後々こんなこともあったねと思い出にもなります。この経験は私にとって間違いなく大きくいい影響を与えました。この2校の交流があったから留学にも行けたし、成長できました。
ありがとうございました。
ウェルカムパーティーでの友達との写真
Only the Beginning
OPELT senior lecturer 1990 to 1992
Robert Bruce Scott
Tanaka, Murase, Mickelson, Emberlin, Hopkins, Niwa
Stalwart men with strong expansive and inventive minds
Visionary souls in tune with Miura-sensei's cultural philosophy
Ohio's natural beauty connected to Aichi-ken's vivid fortresses
Japanese and American hearts beating in rhythm together
Something deeper than cross-cultural language learning
Each of us who shared the experience whether weeks, months, or years
Carried forward from these campuses a flame ignited jointly on projects
Purposeful constructive interrelationships strengthened as scholars
You and I, us and them, devoted to a mission broadly defined
Stimulated and innervated while being inspired by each other's courage
There are no real differences--nothing separates us now Ohio Daigaku, Chubu University, 50 years is just the beginning
Language Center director Shiozawa-sensei shows former OPELT faculty Scott-sensei the new improved Self-Instruction Lab
OPELT director David Hopkins, OPELT teacher Robb Scott, OPELT assistant director John Miller, on Chubu campus in 1991
Modern Language Department faculty Yamada-sensei, chair Yoshikawa-sensei, faculty Scott-sensei, in 1992
今もフラッシュバックする嬉しくて楽しい!の感覚
人文学部 英語英米文化学科 2005年度卒業
中根 希
OUのパーカーを買った College Book Store、オハイオ大学の教授と一緒にコーヒーを飲んだ Donkey Coffee、再上映の3ドル映画を観た The Athena Cinema。20年経った今でもキャンパスの街並みが鮮明に思い浮かぶ。 私にとって、小5で初めて出会った英語はおまじないのようなフレーズで、ただただ不思議な言葉という印象であった。その9年後、オハイオへ長期研修に行くことになる。
オハイオの地に着いてまだ慣れない頃のある日、クラスメイトに "Light blue suits you very well!" と言われた。会話の流れでTシャツをほめられたのは分かったが、何と言われたのかは不明であった。聞こえた言葉を調べて、それを使いたいと思った。以降は、今日会う人に "You look nice on that!" と声をかけると心の中で決めるなどしていた。次第に、出会った人が新たな人を繋げてくれ、みんなで集まってピザをデリバリーしたり、恋に悩んだり、寮のロビーで遅くまでおしゃべりしたり。
恋愛観、人生観、そんなことを英語で語り合うなんて、研修前は思いもしなかった。みんなは、私を英語の勉強に来た日本人としてではなく、一人の個人として見てくれた。こうやっていろんなことに興味を示して自分の考えを持ち、友人らと意見交換をした。文字にすると堅苦しく感じるが、真面目な話題も砕けた会話も様々で、次第に英語を上手く話せるか考えるより、相手を知ることができる喜びの方が大きくなった。そして、それが嬉しくて楽しかった。
私は今子育て真っ最中だ。幼児期にカナダでの生活経験がある小学生の子供たちは、6年経った今でも英語を勉強するのが大好きで、映画のシーンを真似て、Deal?(晩ごはんは唐揚げがいい!無理なの?じゃあ明日ね!という会話で)と聞いてきたりする。こちらが Deal! と答えるのを待っているのだ。新しい表現ってワクワクする!顔がそう言っている。「分かるよ、その気持ち!」と心の中で思えるのは長期研修のおかげだろうか。子どもたちを見ているとオハイオで経験した感情が何度もフラッシュバックする。「英語で伝えるって嬉しくて楽しい!」子どもたちのその気持ちに共感できる今の時間を大切にしたいと思っている。
最後に、これからも両校の絆が末永く続いていきますように。忘れられない貴重な経験をありがとうございました。
Fifty Years of Ohio University and Chubu University: A Journey of Shared Understanding
Summer 23 Study abroad student
Grace Cobb
In the realm of academia, milestones are often marked by years of shared history, accomplishments, and a deep sense of camaraderie. The commemoration of Ohio University and Chubu University's 50-year anniversary of friendship is not just a celebration of time passed, but a testament to the transformative power of cultural exchange and cross-continental connections. As we reflect upon this momentous occasion, it is impossible to ignore the profound impact that this partnership has had on countless lives, including my own.
My personal journey with the Ohio-Chubu friendship began during my freshman year, a time of exploration and self-discovery. Ohio University, known for its commitment to diversity, provided an environment where I could embrace my mixed Japanese heritage. However, the absence of a substantial Japanese student community left me yearning for a deeper connection to my roots. It was through the arrival of Chubu University's Japanese international students every semester that the scope of my college experience began to evolve.
5/21/23 Went to Hocking Hills with some Chubu students the week before my Study Abroad!
Enrolling in Japanese language classes opened a door I had never expected. Each semester, a vibrant group of Chubu students arrived, sharing not only a common interest in language but also a passion for delving into the intricacies of life that had shaped me. Conversations flowed, stories interwove, and suddenly, pieces of my identity that had long remained elusive began to fall into place. Through these interactions, I found myself contemplating the choices my mother had made – from not teaching me Japanese to not raising me in Japan. The Chubu students became my guides, helping me explore not only my own story but the broader narrative of cultural exchange and heritage.
January of 2023 marked a pivotal moment in this narrative. On a whim, I submitted an application to Chubu University's Summer study abroad session, igniting a whirlwind of unexpected opportunities. Six months later, I found myself stepping onto Japanese soil, armed with determination and an eagerness to embrace the language and culture that had always been a part of me. While language barriers initially existed, the desire to learn bridged any gaps, and in just two months, I experienced an entire college journey's worth of activities. From the serene elegance of tea ceremony classes to the creative finesse of flower arrangement lessons, I immersed myself in traditions that resonated with my heritage. Exploring various prefectures, attending festivals, and visiting multiple UNESCO world heritage sites provided me with a rich variety of experiences, mirroring the diverse threads of the Ohio-Chubu friendship itself.
This opportunity has been a revelation, guiding me toward a more profound understanding of the holes in my own story. The Chubu students have not only enriched my knowledge of Japanese cultural practices but have also unveiled the intricate beauty of identity in all its complexity. As I look back on this journey, I am filled with gratitude for the life-altering experiences that have reshaped my perspective.
6/3/23 In the first week of study abroad, found a random poster with OU's city, Athens! (this was taken at Osu)
Looking forward, I am eager to continue my involvement with Chubu University, embracing the ongoing exchange of knowledge, culture, and friendship with Ohio University. As we celebrate the golden anniversary of this remarkable alliance, I am reminded that the true essence of education lies not solely in textbooks and classrooms, but in the transformative connections that shape our identities and enrich our lives.
7/1/23 Went to Kiyomizu-dera with my past conversation partner and friends!
アメリカでの異文化体験
人文学部 英語英米文化学科 3年
崔 ジョシュア 勝
初めてのアメリカはいろんなことがありました。寮生活、日本語を話しても伝わらない、環境が異なるなど様々なカルチャーショックを受けました。しかし現地の人はみんな優しくて最高の思い出になりました! 本当に行ってよかったです!
オハイオ留学を経てからの人生
人文学部 英語英米文化学科 2019年度卒業
武内 美澪
大学2年生の時にオハイオ大学へ4か月の長期研修に行きました。
中部大学で毎日のように一緒にいた友達とは離れ、海外で生活・勉強してみたいと思い切って飛び立ちました!
4か月の海外生活というのは私にとっては初めてのことで、しかも日本以外の学校で勉強することに対して不安と喜びが入り混じって、よく分からないテンションで飛行機に乗ったのを今でも覚えています。
オハイオ大学に着いてからの生活は苦悩や大変さも多くありましたが、今思い返すとそれらも含めて全部が貴重な体験となっていて、また戻りたいなと思えるような留学生活です。
最初は他人と自分をよく比べて「あの子はこんなことができているのに私はこれもできないのか」と思うことが多々ありましたが、自分の状況は自分でしか変えれないという思いから、①自分から積極的に、②文法が不安でも知っている単語を並べて話してみる という2つを意識して生活していると自然と現地の友達ができ、学校生活も楽しくなっていきました! また、日本人とばかりいるのは良くないという意見も多いですが、私にとって日本からの友達はとっても重要で、行き詰まった時に話ができ、いろんな情報交換もできていたので同じ学科の顔の知れた人たちと同じ環境にいるのもとてもありがたかったです。
あれから数年が経ち一度は社会人を経験しましたが、また海外に行きたい、海外で生活したい、もっと英語を話せるようになりたいという思いが消えず、また海外生活を送っています。あの頃の4か月で感じたことを思い出しながら自分にしかできない海外生活を送るために懸命に生きています!!
オハイオ大学長期研修は、私にとって最高の経験でした!
オハイオ大学で4か月一緒に勉強した英語英米文化学科の友達
ナイアガラフォールズ
仲良くしてくれた友達
A Dream Come True
45th Kohei Miura Visiting Professor
Fox Associate Professor of Marketing & Director of the Center for Consumer Research & Analytics at Ohio University
Jacob Lee Hiler
Ever since I found out many years ago that Ohio University had a partnership with Chubu University, it was my dream to become a Kohei Miura Visiting Professor. Though I waited to apply until I knew that I had tenure at Ohio University, it was never far from my mind. I have always had a great appreciation for Japan, its culture, and people, as it is a part of my cultural heritage. My grandmother, Chieko Kajiwara Underwood, was originally from Fukuoka before she married my grandfather and moved to the United States. My grandmother played a very important role in my life, essentially as my second mother, and her teachings, culture, and kindness played a huge role in shaping the person that I am today. She always told me that teachers were some of the most respected people in Japan and always had great admiration for them, so I suppose it’s unsurprising that I eventually became a professor.
After applying In 2021, I was honored to be selected as the 45th Kohei Miura Visiting Professor from Ohio University to visit Chubu University, though because of the COVID-19 pandemic I had to wait 2 years before I was able to serve in this role. That time flew by and now that I am here at Chubu, I can confidently say that my dream turned out to be even better than I had imagined.
The faculty, staff, and students have been so kind and welcoming during my visit. I am grateful to Chairman Iiysohi and President Takeuchi for taking the time out of their busy schedules to meet with me and discuss the important tradition of partnership between Chubu University & Ohio University. I am grateful to Dean Naoki Yamaguchi for providing me with an office in the College of Business Administration & Information Science to conduct my student interviews on various consumer research topics and for allowing me to visit he and Associate Dean Zhao Wei’s (Cho-Sensei) Social Cooperation Class where I had the opportunity to learn about the amazing experiences working with companies that they provide their first year students. Cho-Sensei has been a wonderful colleague during my time here doing so many things for me from taking me to lunch to introducing me to students and faculty. I am thankful to Prof. Kayo Ito for speaking with me about our shared love of teaching and research as well as introducing me to many students. I am grateful that Prof. Makoto Shimizu provided me the opportunity to join his class only minutes after meeting me and allowing me to participate in the new product development activity alongside his students (with a special thank you to Rikuto Takahashi for being my guide throughout the class). I am so grateful to Amy Oya for helping me navigate so many aspects of my journey and time here at Chubu (and especially taking me to the grocery store when I still couldn’t even find my way around campus). And finally, I am grateful to Tadashi Shiozawa, Koichi Hasegawa, Kiyoaki Suzuki, Hiroshi Tsutsui, and Takeshi Okajima for being so kind and helpful during my visit (and who I am looking forward to attending the Chunichi Dragons baseball game and maybe the Nagoya Sumo Honbasho with).
My time here at Chubu has already helped me to broaden my horizons, learn more Japanese, connect with my heritage, and gain an even deeper appreciation for the amazing people and culture of Japan. I have already made many amazing connections and friendships at Chubu and I know that these will last a lifetime. As I continue my time here at Chubu, I look forward to learning much more from the faculty, staff, and students here, though it’s also very important to me to give something back to Chubu and make a positive impact here as well. My grandmother would always tell me “ganbatte ne” and that is what I intend to do during my remaining time here at Chubu and upon my return to Ohio. I am honored to serve as the 45th Kohei Miura Visiting Professor during this 50th year of partnership between Chubu University and Ohio University and I look forward to helping continue to build upon this amazing legacy. Here’s to another 50 years!
Meeting with Chairman Iiyoshi
Welcome dinner with friends and colleagues
These students were so gracious allowing me to be on their new product development team
Connecting The Dots
人文学部 英語英米文化学科 2014年度卒業
髙橋 聡子
高校生の頃、海外との縁は全くないと思っていた私が、母からの強制で短期留学(ニュージーランド)へ行くこととなり、ホームステイ先へGoogle翻訳で書いた手紙を送ったことで、英語ができる高校生と勘違いされ、全くコミュニケーションが取れずに終わった3週間。それをきっかけに、「英語が分かるようになりたい」「コミュニケーションをとりたい」「海外にもう一度行きたい」という将来を描き、留学だけを目的に、大学なんて入れないと言われていたほどの勉強不足な私が奇跡的に大学へ入学(成人式で皆に大学生と言って驚かれたくらい)。そして、オハイオ大学へ行くことに。実は大学受験のとき、中部大学が志望校ではなかったため、下調べは全くせずにただ愛知県の大学に行きたい(私自身が岐阜県出身のため)の一心で入学し、希望者全員が留学できることは知らず・・・入学してから知ることに(めちゃくちゃラッキー)。
留学生活当初は、慣れない寮生活、ルームメイトとのギクシャク、英語に自信がないせいでコミュニケーションも自らは取れず。しかし、毎日の生活スタイルや、学生生活の過ごし方がとても自分に合っているように感じた。勉強嫌いだった私も、なぜか教科書を読みあさり、何度も訳の分からない長文を読み返し、辞書を何度も使い、時に同じ留学生である中国人や韓国人の友達にアドバイスをもらった。それが後に、今でもメッセージを交わす友達になるとは思わず・・・。そして、留学中は英語が理解できないことが多々あり、全く実感しなかった英語力の成長だったが、帰国後にはTOEICの点数が100点以上あがっており、自信に繋がった。
約10年経った今でも、留学中の出来事や生活は記憶に残っている。そして、人生の中で勉強を頑張り、同時に日々の生活もを一生懸命に楽しんだのはオハイオ留学が一番だと思っている。それくらい、濃い、充実した4か月だった。
色んな世界を見てみたい、色んな国へ行ってみたい。そんな思いから社会人では、色んな仕事を経て、海外旅行を専門に扱う会社へ入社。何がきっかけか明確には分からないが、オハイオ大学への留学が影響していることは断言できる。社会人になってからも、ヨーロッパ、アメリカ、アジア等たくさん旅行へ出かけた。その後、コロナ禍の大打撃により、10か月間の休業期間(ほぼニート生活の日々だった)を経て転職し、今では全く関係のない業界で働いている。 ある意味、20代は海外を追いかけて、充実した人生を送ったと言える。「さとこの人生、充実してるよね」と人からよく言われたが、それだけ良い充実した人生を歩んでいるのは中部大学に入学し成長を見守ってくれる先生達に出会い、オハイオ大学への留学を経験したことも影響しているのだろう。 30代に突入し、今では英語を全く使用しない。はたから見れば「もったいない」と言われるかもしれない。だけど、今の私の人生もこれまでの私がなければ辿り着いていない未来だったと思う。
留学1日目: 目に見える物全てが違って見えた記念
中部大学時代、ある授業で Apple 創業者の Steve Jobs の伝説のスピーチを授業で見た。それは今でも私に勇気と自信を与えてくれる。
“You can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.” 「未来を見て、点を結ぶことはできない。過去を振り返って点を結ぶだけだ。だから、いつかどうにかして点は結ばれると信じなければならない」
私の場合、中部大学への入学、オハイオ大学への留学が点の1つでした。
学術交流協定締結50周年。今後も末長く交流が続くこと、そして、これから参加する学生の未来の何かのきっかけになること、点になることを願っています。
留学後、オハイオが恋しくて1人で再来米! 現地の友達とオハイオ大学のグラウンドでスポーツ観戦!
留学最終日: Adams Hallとのお別れ!
人生最初で一番最高の留学
人文学部 英語英米文化学科 2016年度卒業
西村 卓真
最初は行きたくない気持ちが勝っていました。いざオハイオ大学に着いた時、不安になり泣いたこともありました。でもオハイオ大学の先生や友達がとても優しく、安心して留学生活を有意義に過ごすことができました。サクラフェスティバルではダンスリーダーとして真ん中に立つなど、今まで経験したことがないことをオハイオ大学で経験でき、いつも何に対してもマイナス思考で自信を持てなかった自分が自信を持つことが出来るようになり、色々なことを前向きにやっていきたい気持ちが高まりました。
本当にこのオハイオ大学長期研修に参加出来たことに誇りに思っています。 オハイオ大学で出会った友達や、先生裁にすごく会いたい今日この頃です。今は日本で役者をしています。いつかは海外でも活躍できる役者になり、友達や先生にまた会いたいです。
初日に出会った寮の友達
インターナショナルストリート パフォーマンス前の写真
初舞台、初主演を務めた舞台の様子
私の人生の中に存在してくれてありがとう
国際関係学部 国際学科 3年
片山 美奈
留学前は自信が持てずにいる自分がいました。また英語に関してもすごく重要ということに気づかずに、ただ日々勉強していました。ですが、オハイオ大学に行ってから、自分の価値観や世界観が大きく変わりました。
ファッションショー
まず自分に自信が持てました。みんなの目の前でファッションショーに参加して、舞台に立った時の観客の歓声がすごくて、応援してくれる人たちも沢山いました。ショーが終わった後、いろんな人が褒めてくれてすごく自分に対し肯定感が上がりました。もう一つあります。現地の友達がインスタグラムに自分自身の写真をあげていました。写真の加工のフィルターを使わずにありのままの自分で普通のカメラ機能だけを使って撮っていました。私はそのことに驚きました。日本の人たちはフィルター入りの顔が加工できるカメラアプリで撮っているのが当たり前だったからです。アメリカの人たちはありのままの自分の魅力を伝えていました。なので、そのことに憧れを抱くようになりました。それから私も何も加工せずにありのままの自分の写真を投稿するようになり、いつの間にか自分に自信がついていました。
次に、英語の重要さです。ある日、友達と食堂で食べていた時にある女性が目の前に座ってきました。私たちのことを興味津々に「どこから来たの?」と。そこから英語でいろんな話をしていた時にその女性の母国の話になりました。その際にその女性はいきなりその母国の社会問題の話をしてきました。その国の社会問題を聞き、ニュースで報道されていないような話をしていたのです。もし、英語を勉強しなかったら、その国の社会問題さえも聞くことはできなかったです。英語で国際問題を話すということはなかなかできないので、貴重な体験でした。世界を知るということはやはり言語を習得しないと国の現状すらも聞けません。そして文化の話、日常の話すらも語り合うことができません。なので、英語を学ぶということは社会を学ぶということにも繋がると気付けました。その他にも オハイオ大学でたくさんの思い出を作ることができて本当に最高の思い出となりました。
現地の友達
アセンズという場所
人文学部 英語英米文化学科 2006年度卒業、オハイオ大学大学院 国際学部 国際開発学研究科 2009年修了
杉山 寿子
パートナーシップ50周年おめでとうございます。50年という長い歴史の中でたくさんの方々の想いが深い絆を築き上げられたことだと思います。自分自身もその歴史の中の一部となれたこと、とても嬉しく思うと同時に、このような機会を与えていただいたことに感謝いたします。
私は2度アセンズに滞在しました。1度目は長期プログラム、2度目は大学院です。初めてキャンパスに到着した時、大学院生活での初めてのクラス、不安な気持ちがありつつも、心踊る気持ちになったことを今でも鮮明に覚えています。
小さな街に世界中から留学生が集まっているアセンズ。24時間あいている図書館。リフレッシュしたい時はバーに繰り出したり、友達を家に呼んでパーティー。家のバックヤードには動物が現れ、桜が咲いたと思えば雪が降る。勉強に心が折れそうな時は一緒に頑張る仲間がいる。本当に贅沢な環境、時間だったと感じています。
紅葉が美しいアセンズ
大学院を修了して14年。今でも当時の仲間とは連絡を取り、彼らが来日する時は会ってきました。その逆もあります。オハイオ大学と中部大学の交流は、個人と個人の絆も生み出しています。
また、私自身は今、外国人(ミャンマーを主とした東南アジアの人々)の就労支援の仕事に携わっています。留学していた時や、留学がきっかけとなって旅した先々で、たくさんの人に助けられた経験からです。今があるのはアセンズで過ごした時間があるからなのは確かです。
これからもオハイオ大学と中部大学の交流が続き、学生の方々、先生方、関係者の方々のご活躍をお祈りしています。
2年間アメリカ人と韓国人と過ごしたシェアハウス
カンボジア人の友達にご馳走になった料理
2019年
人文学部 英語英米文化学科 2021年度卒業
茨木 玲奈
私は、自分の選択に不安になった時にはいつも、オハイオ留学で出会った人を思い出します。
『どの選択も間違っていない。自分のしたいことをする』それが、どれだけ私にとって重要なのか改めて気付かされた環境でした。まだまだ英語の勉強は必要ですが、いつか必ずオハイオに戻って2019年に見た同じ景色を見に行きます。絶対に!
大好きなルームメイト
アメリカらしい言葉に励まされました
Making Memories Worth Building Upon
Nic Nadeau, Graduate of Chubu and Ohio University
My time with the study abroad program was only a few months, but it helped build a multi-year relationship with Japan. A relationship that was able to become a career. Without the opportunity that Ohio University and Chubu University provided me, along side many now friends, I would not have the great life I'm living now.
The program introduced me to some of the kindest mentors and professors I have ever had the opportunity of learning from. As well as some of the best friends I've ever made. Whether it be valuable lessons, to just having a great time at the local drinking spots, the Kasugai area allowed me to grow into who I am today.
Members of the 2018 Winter Chubu Study Abroad Program at a Nagoya BBQ party
I am now a teacher in Hiroshima Prefecture and having the time of my life. The kids I teach are always so surprised when I say I studied in Nagoya and I genuinely would not be here without Chubu.
Chubu might be one of the best memories I have in my life and I can only wish that everyone that wants to attend it has the same opportunity that I did.
Me (far right) with other Chubu Students and Study Abroad students at the Nagoya Aquarium
今も記憶に残る、アメリカでの貴重な経験
国際関係学部 国際関係学科 1998年度卒業
伊藤 芽美
幼い頃から英語が好きで英語圏に憧れていた私が、初めて海外に行くチャンスを得たのがオハイオ大学への4か月間の長期研修でした。1996年のことです。
現地の学生に交じっての授業や寮生活は、大変なこともありましたが、いつも中部大学の仲間や、外国人の友人に囲まれてとても充実していました。週末には、“American Experience”として、アーミッシュ・カントリーや遊園地、地元の学校や新聞社など、さまざまな場所に連れて行ってもらえたのも、貴重な経験でした。オハイオ滞在中に、旅行でワシントンDCとナイアガラの滝を訪れる機会もありました。自分の世界が大きく広がるのを感じ、とてもワクワクしたことを覚えています。スマホもSNSもなく、写真は現像に出さなければ見られない時代でした。当時、その場で自分の目に焼き付けた海外の風景は深く心に残り、その場の空気感さえ、25年以上たった今も記憶に残っています。
夏学期には、単位取得のためにメキシコから来ていた大学教授の女性とルームメイトになりました。お互いネイティブではない私たちにとって、英語はコミュニケーションツールとしての共通語。発音や表現の間違いにこだわらず、国や世代をも超えて語り合うことができたのは大きな喜びでした。当時の私は、中部大学を退学して他大を再受験することをあきらめきれていませんでした。それを聞いた彼女からのアドバイスは、「教育の場はスーパーマーケットのようなもの。どこへ行くかより、何を買ってきて、どんな料理を作るかが大事なのです。あなたは、何を作りたいですか?大学生活で何をしたいですか?」でした。 心を大きく揺さぶられ、自分自身と向き合うきっかけになりました。
また、この長期研修を通じ、他学部の友人たちと出会いました。海外生活を共にして親しくなれた多くの仲間の存在は、帰国後の私の大学生活をより楽しく、素晴らしいものにしてくれました。
大学卒業後、英文事務の仕事に就いたり、国際交流事業に参加したりするなどの機会に恵まれたのも、オハイオ大学で得られたアメリカ生活と英語体験のおかげです。
40代後半を迎えた現在も続けている英語学習へのモチベーションの原点になっているのは、19歳の時にアメリカで純粋に感じた、「もっと英語を話せるようになりたい!」という思いなのかもしれません。いくつになっても私にとって英語とは、今後もたくさんの出会いの扉を開いてくれるものだと確信しています。
1996年当時のオハイオ大学の学生寮
感謝
人文学部 英語英米文化学科 2018年度卒業
蒲原 晴信
ハロウィン仮装 in 2016
アメフト場
2016年度の秋学期に学科のオハイオ大学長期研修に参加し、2017年度には派遣留学生としてオハイオ大学に留学しました。オハイオ大学で異文化交流と学業に取り組むことができ、今でも忘れられない思い出がいっぱいです。このような留学プログラムに参加させていただき感謝しております。これからも両校の交流が末永く継続されることを願っています。
オハイオ大学滞在中に中部大学から学長たちがオハイオ大学を訪れました(2017)
素敵な友達
人文学部 英語英米文化学科 2018年度卒業
藤村 郁花
私は英語を全く勉強せず、留学に行ってしまい本当に後悔しています。ただ、オハイオ大学の学生たちはとても心優しく私の片言の言葉を理解しようと必死に頑張ってくれました。その結果、素敵な友達と出会うことができ、少なからずTOEICのスコアも上がりました。
今ではそのぶつかろうという勇気を身に付けたことで、仕事でも自分の意見を伝えられるようになりました。
素敵な友達
良い思い出が詰まったキャンパス
人文学部 英語英米文化学科 2018年度卒業
小山 慧
50周年おめでとうございます。
オハイオ大学は、ちょうどいい田舎感で、人が優しい素敵なところです。卒業してからも遊びに行きました。いい思い出しかありません。
オハイオ大学と母校中部大学のこのような関係がこれからも続くことを願っています。
オハイオ大学での思い出は一生の財産
人文学部 英語英米文化学科 2012年度卒業
若尾 三花
13年前の2010年7月、オハイオ大学での長期海外研修へ出発するため、私は中部国際空港にいました。一緒に留学に参加する仲間の中には、英語力に自信がなく留学に対して消極的になっている人、日本にいる家族や友人と離れて生活することに不安を感じている人がおり、皆さまざまな思いを抱き留学を控えている様子でした。 オハイオ大学に到着してからの4か月間は、英語での授業やアメリカ国内旅行、他国からの留学生・ルームメイトやカンバセーションパートナーとの交流など、ここには書き尽くせないほどのたくさんの出来事がありました。皆それぞれが楽しいことやチャレンジングなこと、さまざまな経験をしたと思います。充実した毎日で、あっという間にオハイオ大学生活最終日を迎えました。
まもなく日本に帰国するという時、出発前は留学に対してネガティブな様子だった人も含め、長期海外研修に参加した全員が「帰りたくない」と涙を浮かべていました。そしてオハイオ大学の皆さんとの別れを惜しんでいました。4か月間の留学を終え日本に帰国した私たちは、出発前と比べ皆「やる気」と「自信」に満ち溢れているという印象でした。
Athens Court Street
思い出の詰まった Adams Hall
あれから長い年月が経ちましたが、今でも一緒に留学した仲間に会うと当時の話になります。私にとってオハイオ大学での楽しい思い出は、社会の中で大きな壁に打ち当たったとき、それを乗り越えるための活力になっていると言えます。同じく、留学に参加した皆にとってこの4か月間は、かけがえのない思い出であり人生の中で重要な役割を果たしていることでしょう。
みんなでよく行った Jimmy John's
世界は違う、だから面白い
人文学部 英語英米文化学科 2006年度卒業
中間 優希
アメリカ人の知り合いだけでなく世界中の知り合いが一気にできる ― それが私にとってオハイオ大学留学の最大の利点だったと思います。炊き立ての美味しそうなご飯を水で洗ってネバネバさを取ってしまったコロンビア人。ポルポト政権下からアメリカに一家で逃れてきたカンボジア人。自分は養子だとクラスで話していたアメリカ人。どれも日本にいたら出会ったり経験することのない人や事柄です。違った価値観に触れた瞬間の楽しさや驚きは中毒性ありです。それをまた味わいたくて留学後もボランティアや旅行で世界各地を巡っています。
世界は違う、だから面白い。それを教えてくれたのはオハイオ大学留学でした。
International Street Fair
留学で「殻を破る」
人文学部 英語英米文化学科 2017年度卒業 オハイオ大学大学院 Critical Studies in Education 2020年修了
佐藤 空
私がはじめてオハイオ大学に留学したのは2015年の夏でした。私が在籍していた英語英米文化学科にはオハイオ大学に4か月間留学する長期研修という目玉プログラムがありました。聞いた話によると、私が生まれた年に始まったプログラムということで、長い間続いている実績があるプログラムでした。私も在学中にオハイオ大学長期海外研修で、他の同級生ら約40人ほどと4か月間オハイオ大学にて勉学に励みながら生活をしました。
当然ながらアメリカに行けば全てが日本とは違います。言語、文化、人々、常識、マナーなど、私たちが当たり前だと思っていたことが通用しなくなることも多々あります。その差に悩まされ、自分がどう立ち振る舞うべきか分からなくなることもあります。しかし同時に、それは日本で今まで囚われてきた概念や常識から脱し、自分の殻を破る大きな機会とも言えます。
私にとって留学は、新たな視野を持ち、多様性を吸収し、「生まれ変わる」機会になりました。日本人は日本の中で美徳とされていることに重くを置きすぎるあまり、自分の可能性や柔軟性に枷をかけてしまいがちです。日本人らしくあることは、ある意味ではとても尊ぶべきことではありますが、それは皆同じ価値観や美徳を持っている日本の中でこそ重要とされるもの。他の国に住んだり外国の方々と接したりするときには、その文化に柔軟に適応し対応しなければなりません。
先生の自宅の草刈りを手伝う私
私が当時住んでいたキャンパス内のスタジアム兼寮
そこで大切なのが「視野を広げる」こと。留学のときに感じた文化の違いや苦悩、つらかった経験や楽しかった経験、授業で学習したこと、友だちや人々と交流していく中で気づいたこと、その全てが自分の「殻を破る」糧となります。
私はこの留学で得た経験を基に将来の夢が決まり、その経験を糧にオハイオ大学の大学院へ進学し、現在はアメリカで働いています。さらに留学中に苦楽を共にし仲良くなった友だちとの絆は深く、社会人になり、それぞれ異国の地で生活している今でも連絡し合う仲となりました。
たかが4か月間の留学、されど4か月間の留学。その経験をどう活かし未来を切り拓いていくかは本人次第ですが、異国の地で見るもの触れるものはすべて自分の殻を破る糧となるはずです。
よく遊びよく学び、人生をより豊かにする糧となったオハイオ大学への留学は、私の生涯において多大な影響を与えたとともに、かけがえのない思い出を作ってくれたひとときでした。
大学院在学中のクラス後の打ち上げ
留学で学んで社会で役に立ったこと
人文学部 英語英米文化学科 2012年度卒業
角田 信幸
英語力を高めるために行ったはずのオハイオ留学でしたが、TOEICで言えば350点が500点になったくらいのものでした。それ以上に人生の学びになった点を記します。
①異文化適応
会社に入る時点で異文化でした。部署異動のたび、接する人の職種が違い性格の傾向も違います。10人だろうが100人だろうが国内でもその人たちの構成する小さな文化があります。異動のたびに味わうカルチャーショックですが、そこで萎縮したり物怖じせず果敢に取り組む姿勢を留学で学びました。
②自分と向き合う力
楽しいこともあれば日本に置いてきた恋人にフラれる等、辛いこともあります。塞ぎ込んでもお構いなしに時間は経つし、人は自分のために時間なんてそうそう割いてはくれません。辛いことがあってもどうやって周りに追い付くか。まるで自分のことを第三者目線で見ることで冷静にどの行動が自分のためになるか考えられるようになりました。自分の肯定できるところは肯定し、見直すべき点は否定し再構築する。社会に出ても役に立つ重要なスキルです。
③孤立に対する耐性
留学先では現地の人が自由気ままに生活しています。1人で学食、1人でジム、1人行動が不自然じゃない環境です。人と違う考えを持つこと、主張すること、またその結果として失敗し笑われることに対して恐怖を感じなくなります。他国でも国内でも重宝されるのはチャレンジ精神豊かな人間です。近年の大卒新入社員にはそれが決定的に欠けており面白くもなんともありません。高卒で元ヤンみたいな人の方が役に立つこともあります。
以上3点記載しましたがせっかくお金を払って行くんですからそこでしかできないことに惜しみなく時間を割き、挑戦し、何でもいいから勝ち取ってください。楽しんで欲しいし、悲しい、悔しい、妬ましい・・・そんな思いも沢山してきてください。より人と違う経験を積むための最高のステージだったと今でも思います。覚悟して行ってらっしゃい。
人生に、彩りと新しい価値観を与えてくれたAthens
人文学部 英語英米文化学科 2007年度卒業
杉本 裕介
Athensでの日々は約19年前のことなので、38歳になった私にとって、年数だけ捉えるとずいぶんと過去のことの様に感じられますが、同時に、今でも当時の日々は色褪せることなくしっかりと脳裏に焼き付いています。 Athensで過ごした4か月で、得られたことは数限りないですが、今振り返ってみると、特に大きかったのは「この世界には、まだ自分の知らない世界が存在する」ということを知れたということなのかなと思います。
海外研修プログラムに多大なるご尽力をして下さっていたカージック家の皆さんと
あの4か月がきっかけとなってその後、大学を休学してカナダで過ごしたり、卒論を早めに書き上げてヨーロッパの国々を旅したりと、異文化に飛び込んでいくことに対する躊躇がなくなった気がします。 また、大学を卒業して仕事を始めて以降は、ビジネスシーンにおいて、「物事を多面的に見る」や「認知バイアスの排除」といった、ものの見方の重要さを痛感させられますが、自分の中に「自分の生まれ育った環境と、その他の国と文化」が混在することがその理解の一助になっていることは間違いありません。
帰国前夜の一コマ
日本に遊びに来てくれたOUの仲間と
時として社会の論理に揉まれる最中でも「確かに従来の慣習ではそうかもしれないけど、もっと○○でもいいのでは?」という具合に、異なった視点を持てる様になったのも、若い頃に異文化に触れた経験が一定の影響を発揮していると感じています。
そういえば、卒論を書き上げた直後に出掛けたヨーロッパ旅行で楽しく時間を過ごした現地の友人達と、先日、約15年ぶりに再会しましたが、この出会いや交流も、もとを正せばAthensでの日々が影響していると言えなくもないのではないでしょうか。 Athensという片田舎での生活が、彩りを、そして新しい価値観を与えてくれたこともあって、私の人生は現時点においては比較的ご機嫌モードです。海外研修プログラム関係者の皆様、本当にありがとうございました。
最後に、Athens滞在中に日米の様々な方々にお手間やご迷惑をお掛けしたこと、在学中にTOEICのスコアが全く伸びなかったこと、これらについてこの場を借りてお詫び致します。若気の至りとはいえ、その節は大変なご迷惑をお掛けしまして、誠に申し訳ございませんでした。
現在はコンクリートジャングルにて奮闘中
何もなかった人生 → 面白い人生
人文学部 英語英米文化学科 2021年度卒業、オハイオ大学大学院在学中
駒澤 ひびき
「私には何もない」という悩みは意外と多いのではないでしょうか。私も長年ずっと自分には才能がない、何かに興味もない、やりたいことが分からない、と悩んできました。
しかし、留学をして、人と比べるのではなく、みんなが違う土俵にいるので、何か自分にもできることがあるのではないかと思い始めました。そして新たに自分の興味ややりたいことを見つけ、今はそれを全力で追いかけています。留学をしなかったら、私は今も「私には突出した才能がない」「やりたいことがないから周りには合わせて生きていこう」などと思いながら生きていたと思います。
また、私は周りから「留学楽しそうだね」「遊んでばっかりだね」とよく言われますが、実際は苦しいことの方が多く、辛くて涙を流す日ばかりです。しかし、そんな苦しい経験もまた人生を豊かに、面白くする要素だと思っています。留学をすれば、語学力向上につながることはもちろん、人生が大きく変わることを実感するでしょう。
卒業式にて、卒業するベストフレンドとその家族
図書館で友達と課題に取り組む様子
MY HOMIES
広い世界
人文学部 英語英米文化学科 2013年度卒業
村瀬 絢美
オハイオ大学に留学した最初の方はなかなか馴染めませんでした。ですが、徐々に日本人も日本人じゃない友達も増えて授業も楽しくなってきて少しずつ余裕が感じられるようになりました。
その頃からアメリカの広い空や土地、それからビッグサイズなジュース(笑)など日本とのサイズ感の違いに感動しました。
今でも辛いことがあるとき、アメリカのビッグサイズを思い出し、メソメソするよりリフレッシュして元気を出しています。
帰国前のパーティ
オハイオに行って良かった!
人文学部 英語英米文化学科 3年
今泉 ひかる
私は、学科の長期海外研修で2022年の8月から12月までオハイオ大学に行きました。私は、勉強が嫌いで、中学の文法ですらあやふやなまま、オハイオ大学に行きました。
アメリカについてからは日本人との行動をやめようと決めました。初めて買い物に行った日、オハイオ大学の何人かの学生に、髪色やメイクを褒められました。それから積極的に友達を作り、毎日オハイオの学生と過ごしました。
友達と話すために会話英語の勉強をして、友達に使ってみて、会話ができた時の喜び、英語の勉強の楽しさを知りました。私の英語力が低く、通じなかった時もありましたが、どのオハイオの友達も、一生懸命理解しようとしてくれて、体験して欲しいとなんでも誘ってくれて、本当に楽しい4か月を過ごしました。言語が違うという大きな壁がありますが、「違う言語や文化を学ぶことは楽しい!」とみんなが言ってくれて、「いただきます、おはよう、ありがとう」と日本の言語や文化を使ってくれました。時には、恋バナをしたり、時には友達の相談をしたり、言語の壁はあっても、日本人の友達と何も変わりませんでした。オハイオの友達と過ごす毎日が、私の英語力を伸ばす一番の方法で、1番のモチベーションでした。
オハイオ大学は、他の国から来ている学生も多いので、「英語が喋れたら、たくさんの文化を知ることができる」それが私のモチベーションの一つでもありました。 私は、人と話すことや他の国の文化を知るのが好きです。私は、オハイオ大学で英語力を伸ばすことができたと同時に、英語を話すことの楽しさ、人と関わることの楽しさをより実感しました。
Instagramで私を見つけてくれて、それからずっと仲良くしてくれているブリトニー
初めてお店に行った時、髪色を褒めてくれたケイトリンとハロウィンで写真を撮った
長期海外研修から帰った後は、海外の人と関わる事ができる短期のアルバイトをしました。私が将来やりたいことが明確に見えてきました。また、英語だけはなく、オハイオ大学の多くの人が、私のメイクや服装、性格などを褒めてくれて、自分に自信がつきました。英語力が低い私でしたが、毎日オハイオ大学の友達と楽しく過ごせたのは、私が頑張ったからだと少しは思います。私自身にも自信がつきました!友達を作ることに苦戦すると思っていましたが、お店、バス停、寮、イベント、Instagram、友達の紹介、いろんな場所で友達を作ることができました。外に出て積極的に行動することが大事だと感じました。そして、オハイオ大学の生徒、オハイオの人々の優しさに感動しました。本当にオハイオ大学に行って、多くのものを得ました。オハイオ大学の先生、生徒、お店の人、たくさんの人に感謝をしたいです。ありがとう!
サンクスギビング!多くの人と出会い、英語のモチベーションをもらいました
私のFacebookから
国際・地域推進部
鈴木 清明
私がオハイオ大学に行ったのは2014年3月初め、オハイオ大学長期研修の往路引率者としてでした。1週間という短い期間でしたが、マイナス10度の寒さを体験できたかと思うと、2日後には20度を超える暖い日が訪れたり、体がびっくりしていたのを思い出します。当時、私は広報の部署におり、Facebookで積極的に情報発信していました。20人の参加者を残して帰国する際にFacebookに書き留めた文章をご紹介します。
オハイオ大学到着翌日のキャンパスツアーで
-----
中部大生たちは初めの1週間、どうだったでしょうか? まだ1週間ですが、本当に多くのことを学び、体験できたと思います。
はじめから楽しくて仕方がない人、だんだん楽しくなって来た人、楽しさ・つらさが交互に来る人、苦しんでいる人、なんとなく過ごしている人、悩んでいる人・・・さまざまのようですが、この1週間の15倍の時間を過ごすことになるのですから、たくさんのことをしっかり吸収して次に生かしていってほしいと思います。
英語力が劇的に上昇することも努力次第では可能でしょう。それも必要ですが、何よりもアメリカで生活することに違和感を感じなくなって帰って来てほしいと思います。そうすれば次の機会には勉強そのものに集中できるはずですから。そしてもしその次の機会があれば、そのときは語学留学ではなく、何か専門を学ぶために留学をしてほしいと思います。
この4か月はかけがえのない4か月です。まずは体に気をつけて。食事・睡眠はしっかりとるように。そして勉強がんばって。その上でアメリカの生活を楽しんでください! たくましく成長した君たちに再会できるのを楽しみにしています。
-----
美しいオハイオ大学キャンパス
4か月後、学生たちはたくましくなって帰ってきました。
・自分の英語のできなさに一時は自暴自棄になりそうだったのを一からスタートしようと思い直して、何とか英語で意思疎通ができるまでになって帰ってきた学生。
・身につけた英語力を生かしてその後オーストラリアにさらに1年間留学し、4年間の中部大学在学中、1年半を海外で過ごした学生。
・中部大学卒業後、オハイオ大学大学院に進学した学生。
・卒業後も学部1年生対象の「スタートアップセミナー」にゲストとして招かれて留学の意義について語る卒業生。
みんなオハイオ大学長期研修の4か月を糧にしてその後の人生を歩んでくれていると思うと感慨深いものがあります。
私のオハイオ最終日、みんなで記念写真
第1回オハイオ大学長期研修団を引率して
国際センター長
塩澤 正
1994年にスタートしたオハイオ大学長期研修プログラムは、中部大学の留学プログラムを代表するものとなっています。この研修プログラムがあるから中部大学を選んだという学生も少なくありません。1994年9月10日発行の三浦学園報(当時)に掲載された引率者塩澤正 助教授(現・人文学部英語英米文化学科教授・国際センター長)による第1回のオハイオ大学長期研修の報告を紹介します。
-----
さる7月19日に第1回オハイオ大学長期研修プログラム参加学生一行が無事名古屋空港に到着した。黒く日焼けした一人一人の顔には115日間のオハイオ大学での研修を成功させたという、自信と喜びが溢れていた。笑顔と感涙が入り乱れるなか、学生部長らの出迎えを受けた。以下簡単にこの研修を報告してみたい。
中部大生は学習面でも生活面でも全力で取り組み、本当に「よく学び、よく遊んだ」。特に、専門の授業はアメリカ人学生達と席を並べて学習する厳しいものであったが、最終的にはアメリカ人学生と比べても遜色のない立派な成績を収めるところまでよく頑張った。毎日のように図書館やコンピュータールームで夜中まで真剣に学習に取り組んだ学生達の努力の結果である。
オハイオ大学の教員の配慮もこのプログラムの成功の大きな要因である。専門の授業に学生と一緒に参加して、英語の授業で専門の授業の復習をしてくださったOPIE教員や、日曜日を返上して工学部の学生を個人教授して下さったオハイオ大学工学部教員などの献身的な努力に助けられた。
学生達の英語も格段に伸びた。始めは電話が怖いと言っていた学生達が、春学期が終わるころには、さまざまなトッピングをのせたピザなどを自分で注文するまでになった。中には中部大生同士でも互いに英語を話し、英語力を高めようとする者まで現れて、微笑ましい限りであった。
記念すべき第1回オハイオ大学長期研修
週末には彼らは大いに現地学生と交流を深めた。中にはアメリカ人のボーイフレンドやガールフレンドまで作った学生もいる。月曜日から金曜日まで一生懸命学習して週末に大いに羽をのばすという、アメリカの大学生活のスタイルも身につき、大変だが本当に充実感のある生活を送ることができたはずだ。
いくつか細かい問題点はあるが、全体としては学生に本当によい経験を与えることができた第1回オハイオ大学長期研修プログラムであったと思う。彼らがこの経験を多くの中部大生に語り、他の学生にも良い影響を与え、ますます様々な留学プログラムが大きく発展してゆくことを望みたい。
(外国語教室 助教授 塩澤 正)
メッセージ募集中!
オハイオ大学に留学経験がある中部大学卒業生、中部大生の皆さん、中部大学に留学経験があるオハイオ大学卒業生、オハイオ大生の皆さん、両大学の関係者の皆さん、写真を添えてぜひメッセージをお寄せください。
投稿上の注意:
1. 写真を投稿する際は、写っている人(特に顔が特定される人)に許可を得ていただくのが望ましいです。
2. オリジナルの原稿を尊重しますが、部分的に修正することがありますので予めご了承ください。
お問い合わせ先:
中部大学国際センター cip-o@office.chubu.ac.jp